「ピカッ」という光に鉄道橋から上がる炎——。76年前のあの日の光景は、3歳だった子どもの脳裏にも、鮮明に焼き付いている。林勝美さん(79)=兵庫県加古川市=は、原爆で姉千津子さん(当時14歳)を亡くした。「戦争は二度と繰り返してはいけない。100歳まで生きて語り継ぎたい」。6日、決意を新たに、初めて遺族代表として平和記念式典に臨んだ。

4日には、広島市内の寺院にある千津子さんの墓に参った。「戦争のない世界のために命ある限り努力したい。姉さん、天国から見守ってくださいね」。姉の記憶はないが、「末っ子の私を抱いてくれたのでしょう」と思いを巡らせた。そして「20年後か30年後、会えるのを楽しみにしています」。そっと花を添えた。

「助けて」叫ぶ姿を見殺しに

1945年8月6日、千津子さんと共に身を寄せていた同市天満町(現広島市西区)の親戚宅で被爆した。爆心地から約1・3キロ。中庭で池のコイや金魚を眺めていた時に「ピカッ」と光った。火の手から逃げるように叔父や叔母と避難する途中、鉄道橋から赤々とした炎が上がっていた。

千津子さんは、洗濯物を干しに親戚宅の2階に上がったところを、倒れてきた柱やはりに挟まれたという。人力ではとうてい動かず、「助けて」と叫ぶ姿を見殺しにして逃げるしかなかった、と後に親戚から聞いた。

逃げ込んだ先の家は窓ガラスが割れ、床にはガラスが散乱していた。小学5年の時、足の痛みを覚えて病院に行くと、足の裏にガラス片が入っていたことが分かった。放射線の影響か、貧血に悩まされ、小学校で倒れることも少なくなかった。

伝承者研修で「先輩」に学ぶ

22歳で広島を出て、兵庫県の会社に就職。4〜5年前から、加古川市の平和教育の一環で子どもたちへの証言を依頼され、小中学生に被爆体験を語り始めた。年長者の後を継ぐ形で始めたが、記憶が断片的で難しいと感じることも。「この目で確かに見たのに頭には残っていない。もっと強くアピールできる方法があるのではないか」。「先輩」から学ぼうと、2018年からは、広島市の「被爆体験伝承者」の研修に参加。広島に何度も足を運び、これまでに十数人の被爆証言を聞いた。

「なぜ私が被爆者にならないといけなかったのか」と考えてきた。その思いを「証言」に向けた今、生き残った被爆者として語ることが「使命」だと感じている。式典後、慰霊碑に手を合わせ、誓った。「原爆の悲惨さを、生き延びた一人としてしっかり伝えていきます」【木村綾】

#原爆 #戦争 #子ども #兵庫県


「生き延びた一人として語り継ぐ」 原爆で姉亡くした79歳の使命

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