「海を走る鉄道」と呼ばれた日本初の鉄道の遺構が東京都港区で出土した。明治初期に東京湾の浅瀬に土を盛って築かれた堤で、当時はその上に線路が敷かれていた。堤の上を鉄道が走る様子を描いた浮世絵も残されているが、堤の実物が確認されたのは初めてだ。なぜ、わざわざ海上を通らせたのか。背景には、明治維新で活躍した #西郷隆盛 が鉄道の敷設に反対だったことがあるようだ。

日本で初めて鉄道が開業したのは1872(明治5)年のこと。東京・新橋(港区)と、外国からの大型船が停泊する商業都市・横浜を結んだ。当時は蒸気機関車の時代。全長29キロの道のりを53分かけて走った。そのルートの一部約2・7キロに、海に築かれた幅約6・4メートルの堤があった。場所は現在の田町駅(港区)から品川駅(同)までの辺りとされる。

港区立郷土歴史館によると、出土した堤は台形の構造で、両脇は石垣で固められている。JR東日本による再開発工事中の2019年4月、JR品川駅付近で見つかった。その後も断続的に見つかり、これまでに長さ約1キロ分が確認されている。線路そのものは出土していない。

鉄道史に詳しい立教大の老川慶喜(おいかわよしのぶ)・名誉教授は「海上に築堤があったのは有名な事実だが、取り壊されていると思っていた。まさか原形をとどめているとは」と驚く。堤は「高輪(たかなわ)築堤」の名で知られるものの、これまでは浮世絵のほか、若干の枚数が残されている写真でしかその様子を知ることができなかった。出土した堤は、内務省が作製した1887(明治20)年の地図に記された線路の場所と一致しており、港区立郷土歴史館やJR東は高輪築堤の実物だとしている。

堤はどんなものだったのだろうか。明治初期の浮世絵「東京品川海辺蒸気車鉄道之真景」(港区立郷土歴史館所蔵)には、海に築かれた堤の上を蒸気機関車が煙を吐きながら走るさまが描かれている。堤には水路が設けられ、東京湾へとつながっている。岸辺を人や馬車が行き交う姿もあり、明治維新直後の日本の姿がしのばれる。

海上を通るルートを選択した理由は何だったのか。老川名誉教授によると、陸上を通るルートでは兵部省(軍事を担当する役所)の所有する土地を通らなければならなかった。しかし、明治政府の要職にあった西郷や兵部省が鉄道の敷設に反対し、土地の引き渡しを拒んだ。西郷らが当時、鉄道を開業させるよりも軍備拡大を優先させるべきだと考えていたためとされる。このため、海を埋め立てながら線路を敷くことになった。鉄道がいつまで運行していたか不明だが、堤は明治末期まで使われていたとみられている。その後、周辺は昭和初期までに埋め立てられ、線路や堤の行方も分からなくなっていた。

老川名誉教授は「堤がどういうものだったのかが詳細に分かり、日本の鉄道の原点を示す非常に貴重な資料だ。現地で保存していくことを粘り強く考えていくことが大事だ」と話している。

JR東の再開発計画では、堤の上に高さ170メートル前後のビル4棟を24年度までに建てる予定だが、広報部は「現場調査の結果を踏まえ、計画の見直しが必要か検証していく」としている。JR東は港区教育委員会などと協議して保存を検討しており、来年1月10〜12日に事前応募制の一般公開をする予定だ。公開は1日5回で、各回の定員は20人。応募ははがきで12月23日の消印有効。問い合わせは「高輪築堤」現地見学会事務局(050・3189・0560)。【山本佳孝】

#西郷どん #明治 #東京 #港区


西郷どんが猛反対? 日本初の鉄道が海を走らざるを得なかったわけ

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