大船~湘南江の島間(6.6km)を結ぶ湘南モノレールが、2021年7月2日に全線開通50周年を迎える。筆者は現在、湘南モノレールの公式サイトにて、全線開通50周年記念連載「湘南モノレール全線開通までの全記録」を連載中である。

全線開通時、湘南江の島駅に停車中の300形(提供 : 湘南モノレール)

ところで、湘南モノレールが開業・全通した当時、日本各地でさまざまな形式のモノレールの建設が進められていた。モノレールの技術は、いつごろ誕生したのか。また、海外に比べて、なぜ我が国に多くのモノレールが建設されたのか。今回はこのような観点を中心に、モノレールの歴史と現状を見ていくことにする。

■モノレールの歴史は意外にも古い

モノレールといえば、空中を駆け抜けるその姿から「未来の乗り物」というイメージがあるが、意外にも技術的な歴史は古い。

世界初の鉄道とされる英国のストックトンとダーリントンを結ぶ蒸気鉄道は1825年に開業したが、その1年前の1824年に、英国人のヘンリー・パーマーという人物が、木材のレールと馬力を用いた貨物運搬用のモノレールをロンドンのテムズ川畔にあったデトフォード造船所に敷設したとの記録が残っている。レール上を走行する車輪から左右に吊るした籠をいくつか連結し、地上を走る馬に牽引させたとのこと。記録に残るものの中では、おそらくこれが最初のモノレールであろう。

A字形の軌道桁を挟み込むようにして走るラルティグ式モノレールのリストール・バリーバニオン鉄道(国立国会図書館所蔵文献より)

1888年には、アイルランドにリストール・バリーバニオン鉄道(Listowel and Ballybunion Railway)という、蒸気機関車が牽引する延長約15kmのモノレール(ラルティグ式)が登場している。同鉄道は海岸から内陸地へ土砂を輸送するとともに旅客営業も行い、1888年3月から1924年10月まで36年間にわたって運行された。動力付きモノレールを用いた公共交通の先駆けとされる。

モノレールの営業線で現存する最古の路線は、1901年3月に営業開始したドイツのヴッパータール空中鉄道(Wuppertaler Schwebebahn)であり、ドイツ人技師のオイゲン・ランゲンが開発した鋼鉄レール・鋼鉄車輪の懸垂型モノレールの技術(ランゲン式)を採用している。

ヴッパータール空中鉄道 (C)WSW-Vohwinkel Kaiserplatz um 1925-2

ヴッパータール(※)という、国際的にはそれほど名の知られていない都市にモノレールが建設されたおもな理由は、地形上の制約にあった。同市はルール工業地帯に属し、19世紀末になると道路交通がかなり混雑するようになっていたため、これと分離した高速交通機関の建設が望まれた。しかし、ヴッパータールの市街地はライン川の支流であるヴッパー川沿いの狭い谷間に広がっており、新たな鉄道用地を確保することが困難だった。そこで、ヴッパー川上空の空間を活用することになったのである。ヴッパータール空中鉄道は、その路線の大部分がヴッパー川の上空に建設されている。

(※)ヴッパータール市は、ノルトライン=ヴェストファーレン(NRW)州の州都デュッセルドルフの東に位置する人口約35万人(2019年現在)の中都市。エルバーフェルト、バルメンなど複数の都市が合併し、1930年に誕生した。

■日本のモノレール第1号は

では、日本のモノレール第1号はいつ誕生したのだろうか。我が国でも、戦前から「単軌鉄道」「懸垂鉄道」といった名称でモノレールの存在は知られており、各地で敷設免許の申請が行われた。中には地方鉄道法にもとづき、免許が与えられた例もあった。

1928(昭和3)年7月3日付で、江ノ島電気鉄道(現・江ノ島電鉄)に対し、片瀬~江ノ島間0.89kmの懸垂鉄道敷設免許が交付されており、これがモノレールとしては戦前における唯一の免許例となった。しかし、地元漁業組合の反対や、江の島を国の名勝・史蹟に指定する動きなどがある中で、建設に至らないまま、1935(昭和10)年9月12日付で鉄道起業廃止(敷設を断念)となっている。

大阪電気博の「空中電車」(国立国会図書館所蔵文献より)

ほぼ同じ時期に、地方鉄道法によらない遊戯施設扱いではあるが、懸垂型モノレールらしきものが実際に建設され、短期間ながら運行された例もあった。1928(昭和3)年、大阪市の天王寺公園で開催された「大礼奉祝交通電気博覧会」の各会場間を結ぶ目的で敷設された「空中電車(懸垂飛行鉄道)」がそれであり、同年11月29日付の大阪朝日新聞が写真入りで報じている。

この空中電車は、「車体内にガスエンヂンを装置し自力を以て運行するもの」だったといい、わずか5日間のみ運行され、博覧会閉幕とともに撤去されるという、まさに幻のような運命をたどったモノレールだった。

豊島園の「空飛ぶ電車」(提供 : 株式会社西武園ゆうえんち)

戦後の1951(昭和26)年には、豊島園に懸垂型モノレールが登場している。このモノレールは直径60mの円形線路を平均7.5km/hで走行するもので、やはりこども用の遊戯物として設置され、「空飛ぶ電車」として人気を博したという。設計を手がけた人物は、小田急ロマンスカー(SE車)や新幹線の車両開発に重要な役割を果たし、後に湘南モノレールの常務取締役・技師長も務めた三木忠直氏である。

■モノレールが日本で注目された理由

さて、前述したヴッパータール空中鉄道が建設された後、半世紀の間は実験的なものや遊戯物を除き、世界中のどこにも本格的な交通機関としてのモノレールは建設されなかった。その理由として、より安定性の高い、2本レールの通常の鉄道が敷設できるのであれば、あえてモノレールを建設する理由がなかったことと、自動車輸送の隆盛などが挙げられる。

ところが、戦後の高度経済成長期、諸外国と比べて道路の許容量の面で十分と言いがたい我が国において、自動車の激増によって麻痺寸前に追い込まれた都市交通の解決策として、街路上空の専用軌道を走行するモノレールが脚光を浴びるようになった。ゴムタイヤ駆動等により、低公害での運行を可能とする新技術が開発され、当時、本格的に建設が始まっていた地下鉄と比べて建設費が安価(地下鉄の1/3~1/4)で、工期も短くて済むといわれたことも、注目される理由となった。

そして1957(昭和32)年12月、いわゆる上野動物園モノレール、正式名「上野懸垂線」が運行開始した。上野懸垂線が建設された経緯については、『東京都交通局50年史』(東京都交通局、1961年)に、「都内の路面交通の緩和策として懸垂電車の試験的建設が昭和31(1956)年7月3日庁議によって決定され、上野動物園内に建設されることになった」と記されている。

上野懸垂線、開業時の出発式(提供 : 東京都交通局)

当時は、東京都内の自動車台数が急激に増えた時期であり、1952(昭和27)年の13万台から、1955(昭和30)年に24万台、1960(昭和35)年には61万台と、8年間で5倍近くにまで急増していた(数値は警視庁交通年鑑)。その影響で、都電の軌道敷に自動車が無差別に進入するなど、これまで都市交通の王座といえる地位にあった路面電車と自動車の共存が困難になりつつあった。

こうした中、1958(昭和33)年8月、東京都交通局は路面電車に代わる新時代の都市交通として、都営地下鉄1号線(現・都営浅草線)の建設に着手した。しかし、地下鉄建設は巨額の費用(都営浅草線は1kmあたり45.3億円)を必要とすることから、その対象を幹線交通路に絞らざるをえない。そこで、地下鉄を建設するほどの需要が見込めない路線における新たな交通手段として、建設費が低廉なモノレールが期待されたのである。

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半世紀前、なぜモノレールが注目されたのか? その歴史と現状を探る

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